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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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何のために健康を欲するか。

「これから正義の話をしよう」やNHKの白熱教室でおなじみ、政治哲学者マイケル サンデルの理論展開は、「公正」に関わるもの、「腐敗」にかかわるものという2の視点から功利主義リバタリアニズムを批判する。[1]「公正」という観点からは市場選択に反映される不平等について、「腐敗」という観点からは市場関係によって損なわれる態度や規範について疑問が投げかけられることになる。公正の観点からの指摘は、不平等な状況下で、あるいは経済的必要に迫れた状況下で生じる不正義であり、腐敗の観点が指摘するのは、市場における取引が、ある種のモノや行為を堕落させる効果を持つということだ。

かかりつけ薬剤師問題も基本的にはこの2つの観点から疑問を適することが可能だ。あらゆる努力のいかんを問わず、すべての薬剤師が原理的に“かかりつけ薬剤師”になることができないという公正にかかわるもの、そして企業にとってみれば経済的インセンティブにつながりかねない腐敗にかかわるもの。つまり締め出される医療者としての規範である。ただ今回はかかりつけ薬剤師問題に言及するつもりはない。[2]

〔金銭的インセンティブの問題〕

お金のために…。という行動原理は何か、人として“低級な規範”に従っているように思えるのはなぜだろうか。その行動が世界中の人を幸福にしたとしても、何かが間違っているように思われるのはなぜなのだろうか。少し、考えてみてほしい。

例えば、ある公立高校2年生の国語の成績が全国平均よりも低いとする。その高校に通う生徒の多くが本を読まない。そこで、学校は本を1冊読んだら100円を支給するという金銭的インセンティブ介入を実施したとしよう。1年後の学力テストで、国語だけでなく、すべての科目でテストの点数が平均を上回り、高校の偏差値自体も上昇することになったらどうだろうか。つまり金銭的インセンティブで生徒が勉学に励むよう仕向ける介入を行うのである。これによって誰かが不幸になることはないどころか、生徒はテストの点数もあがり、難関大学へ合格できる可能性が高まることさえも考えられる。学校側としても進学実績が上がり、高校自体の偏差値も上昇するとしたら、社会全体の幸福度は上昇すれど低下することは考えにくい。これは市場原理を擁護する基本的な構造でもある。しかしながら「この取り組みは何か違う…」僕たちはそう思わざるを得ないような気がするのだが、いかがだろうか。読書は本来、人生を豊かにする行為だ。読書と言う行為を金を得るための手段にしている、そのことに何か違和感を覚える。

さて、このような金銭的インセンティブによる介入は実際、医療現場でも研究されている。いくつか例を挙げよう。

〔減量するから金をくれ〕

Volpp KG.et.al. Financial incentive-based approaches for weight loss: a randomized trial. JAMA. 2008 Dec 10;300(22):2631-7. PMID: 19066383

この研究は肥満治療のための減量を金銭的インセンティブにより誘導できるか検討したランダム化比較試験である。30歳~70歳の健常者57人が対象となった。被験者のBMIは30~40とかなり大きい。被験者は毎月の体重測定群、くじインセンティブプログラム(lottery incentive program)、保証金契約(deposit contract)の3群にランダム化されている。くじインセンティブプログラムとは宝くじのようなものが提供される仕組みだ。16週間(4か月)のプログラムを実施した結果、インセンティブ群2群はともに毎月の体重測定群よりも体重減少が大きかった。しかしながら7か月後においてはその差に統計的有意な差を認めなかった。

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インセンティブがなくなったとたんに明らかなリバウンドを起こしている。

〔ワルファリンを飲むから金をくれ〕

Kimmel SE.et.al. Randomized trial of lottery-based incentives to improve warfarin adherence. Am Heart J. 2012 Aug;164(2):268-74. PMID: 22877814

ワルファリンは特に心房細動を有する患者において、極力アドヒアランスを保ちたい薬剤である。脳梗塞ハイリスク心房細動患者に対するワルファリンの服用は数々の研究で、そのベネフィットが示されている。

この研究はワルファリン投与における、くじインセンティブ介入の効果を検討したランダム化比較試験である。100人の被験者が対象となった。ところが、6か月後、INRのコントロール不良者に明確な差はなかった。オッズ比0.93[95%信頼区間0.62~1.41]

ただ、サブグループ解析では、もともとINRが低かった人で、くじインセンティブプログラム群のコントロール改善が見られている。もともとアドヒアランスがわるい患者には金銭的インセンティブは有効かもしれない仮説を提起している。[3]

〔薬を飲んでもらうための金銭的インセンティブ〕

Giuffrida A.et.al. Should we pay the patient? Review of financial incentives to enhance patient compliance. BMJ. 1997 Sep 20;315(7110):703-7. PMID: 9314754

薬をしっかり飲むことが良いことなのか、議論の余地もあろうが、なんと「お金を払うからしっかり薬を飲んでくれ」という介入を評価したレビューが97年に報告されている。これによれば11研究中10研究で金銭的インセンティブは患者のコンプライアンスアドヒアランス)を改善したと結論されている。

〔禁煙するから金をくれ〕

この手の研究は多いが今回は2009年NEJMの報告をご紹介しよう

Volpp KG.et.al. A randomized, controlled trial of financial incentives for smoking cessation. N Engl J Med. 2009 Feb 12;360(7):699-709. PMID: 19213683

この研究は米国の多国籍企業の被雇用者878人が対象となった。禁煙プログラム情報を提供する442人と、それに加えて金銭的インセンティブを与える436人にランダム化されている。この研究における金銭的インセンティブは現金支給である。つまりプログラムを完了したら100 ドル、登録後 6 ヵ月以内に生化学検査で禁煙が確認された場合は250ドル、最初の禁煙が確認されてからさらに6 ヵ月間の禁煙達成で400 ドルが支払われた。その結果、インセンティブ群では情報提供のみの群に比べ、9 ヵ月後、12 ヵ月後、15 ヵ月後,18 ヵ月後いずれも禁煙割合が高かった。

〔ワクチンも接種するし検診も受けるからするから金をくれ〕

禁煙のみならず、検診の受診率やワクチン接種率なども金銭的インセンティブで上昇する可能性が示されている。

Giles EL.et.al. The effectiveness of financial incentives for health behaviour change: systematic review and meta-analysis. PLoS One. 2014 Mar 11;9(3):e90347. PMID: 24618584

この研究はランダム化比較試験16研究のシステマティックレビュー・メタ分析である。禁煙はもちろん、ワクチン接種/検診受診も有意に増加している(リスク比1.92[95%信頼区間1.46~2.53])

 

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〔金銭的インセンティブの問題〕

これまで示してきたエビデンスは、金銭的インセンティブで健康に関連する人間の行動が短期的であるにせよ変化する可能性を示している。ワルファリンの論文はINRを見ていたため、実際の行動は、つまりアドヒアランスは改善したかもしれないが、INRまで反映されなかったのかもしれない。[4]

日本ではここまで過激な介入が医療政策として実施される気配はまだないが、例えば禁煙補助治療に関わる医療費を保険者が負担するというようなシステムは既に存在する。喫煙による健康被害と、それによる企業ダメージ(従業員の欠勤、および負担する医療費)を考えれば、治療費を負担する方が、メリットがあるというわけだ。僕たちはこの制度に対してそれほど大きな嫌悪感や違和感はないだろう。それがあからさまに低級だとは僕も思わない。

ただ、本来は健康を目指すのは、お金のためではない。それは幸せな人生を送るため、寿命を先延ばしにしたいという思いからではないか。健康寿命が現代医療で伸びるかどうかについてはまた別の議論が必要であろう。しかしながら、本来お金で買えないのが健康である。少なくともお金がもらえるから禁煙するとか、お金がもらえるから薬を飲むとか、そういった行動原理には何か違和感がある。

禁煙をするのも、ワクチン接種するのも、そして薬を飲んだり、検診を受けるもの、守るべき家族、大切な人とのかかわりをいつまでも大事にしたいからではないか。痩せるのだってお金が欲しいから、というわけじゃない。より素敵な容姿になって、充実した日々を過ごしたいからではないのか。つまり健康に関わる問題は人の生き方の彩りを加えるものである[5]健康的な行動スタイルのインセンティブが金銭的メリットだけというのは、明らかに低級な規範に従っている。なにか健康に関わる問題に対する人の考え方は、お金で強制されるようなものではない。金銭的インセンティブがなくなった途端に体重がリバウンドしている現象は示唆に富む。

医療介入の研究ではあまり浮き彫りにならなかったが、僕は以下の点を指摘しておこう。つまり、金銭的インセンティブは何か道徳的な自由を奪う。こうするよりほかない、といった人たちに金銭的なインセンティブをちらつかすことで、その行動をゆがめ、より低級な規範に基づく行動を促すことにつながる。例えそれが社会全体の効用を高めようが、それは個人の道徳的自由を少なからず侵食している。

〔注釈〕

[1] マイケル・サンデル「これから正義の話をしよう」「それをお金で買いますか」早川書房参照

[2] このあたりの議論は病院薬剤師である僕の立場ではなく、是非、現場の人が声を上げてほしい。

[3] ただし検証された仮説ではない。一次アウトカムに有意差は無いのである。ちなみにパイロットstudyでは金銭的インセンティブがアドヒアランスを改善する可能性が示されている。〔BMC Health Serv Res. 2008 Dec 23;8:272. PMID: 19102784〕まあそもそも代用のアウトカムなのだが。

[4] まあ、それでは意味ないのだが…。

[5] それが実現されるかどうかは別途して