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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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薬が効くとはどういうことか、薬剤効果の現象学的考察

プラセボという効果]

ひとつ、興味深い臨床研究を紹介しよう。

Barrett B, Brown R, Rakel D Placebo. et al.  effects and the common cold: a randomized controlled trial. Ann Fam Med. 2011 Jul-Aug;9(4):312-22.  PMID: 21747102

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/21747102

この研究は、12~80歳で新規に風邪症状を発症した患者719人(平均33.7歳、女性64.1%)を対象とした2重盲検ランダム化比較試験である。いったいどんな治療が比較されたのか。なんとプラセボと、治療なしが比較されたのだ。5日間の追跡で、風邪症状の平均持続期間はプラセボで、6.87 日[95%信頼区間6.33~7.41]、治療なしで7.03日[95%信頼区間6.51~7.56]であった。その差は−0.16日[95%信頼区間−0.90~0.58]であり、明確な差は出なかったが、プラセボで症状の持続が3.8時間短くなる傾向にあり、臨床的な意義はよく分からないが、人によっては1日近く持続時間が短縮したという結果になっている。興味深いなどと言いつつあまりインパクトがなかったかもしれない。いずれにせよ、この95%信頼区間の幅を見れば明らかなように、プラセボだろうが薬剤が効くという人と、効かないという人がいるという事は経験的にも自明のことのように思える。

臨床試験の結果、いわゆるエビデンスから得られた客観的な薬剤効果は一種の構造であると言える。そしてその構造の一般化が統計解析(95%信頼区間法など)である。したがって臨床医学論文を読むということは現象を構造化し可視化するための手段の一つであり、それが実臨床における薬剤効果を規定する唯一の根拠となるものではない。

[自然の数学化]

自然現象の数学化あるいは定量化という自然科学が打ち立てた法則や関係式はヒトの世界認識を大きく変えた。フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学の中で、現象の定量化(構造化)はヒトの日常経験と言う主観的な世界観を、いわゆる「関係式」により具体化することで、確実で絶対的な世界だ、という感覚をヒトに与えることに成功したと指摘する。関係式を与える自然科学は、法則が表現する定式化された世界こそ客観的なものの見方であり、日常の経験そのものはそれに比べてしまえば相対的であいまいなものだという感覚をヒトに植え付けてきたということだ。生活の便宜として現れた自然科学は、やがてある因果関係の体系化を推し進めていくことが目的となり、現実の生活世界は、この目的のために検証されるべき手段に過ぎないものとみなされていく。

分子生物学、薬理学、病態生理学、疫学や統計学といった学問は、現象を構造化し、それに名称を付けることで定式化し、因果的な法則の客観化を成し遂げたが、現実の生活世界における現象に必ずしも直結しないという事が忘れ去られてきたということは軽視すべきではない。端的に言えば自然科学は目の前の現象を捉えるため、その認識に対する仮説的補助線(≒フィクション)であるという事を認識できなくなっている

[世界認識の立ち現れ方]

薬が効くとはどういうことなのか。薬剤効果を学問的客観世界に求めることは、主体による薬剤効果の知覚そのものを規定しない。このことを考察するため、現象学的な世界認識について触れておく。

現象学と言えばエトムント・フッサール(1859~1938年)が有名だが、本稿でもフッサールの方法論をもとに話をすすめよう。人間がこの世界を認識しうるものは大きく2つに分かれる。それは「実在物」「ことがら」だ。「実在物」と言うのは、例えば目の前のコップやリンゴのようなもの、「ことがら」と言うのは思想や宗教、価値観などにあたる。おおよそ人間は「実在物」や「ことがら」などに対する“世界認識”を自分が属する社会集団の人間たちと共有しながら生活しているわけだ。円滑な社会生活を営むために、この世界認識は誰に取っても普遍的なものである必要がある。

「実在物」の認識について、これは指しあたって誰に取っても普遍的な共通了解を導き出すことはそれほど難しくはないと思われる。目の前にリンゴがあれば、誰しもがリンゴと認識しうるということは違和感がない。これは視覚や触覚、聴覚など人間の五感で知覚できうるものであり、その共通了解は人間の生物学的な身体同一性で支えられているからである。(言い換えれば、実在物といえど、人間とサルとでは共通了解を導き出すことは難しいといえるわけだ)

しかし「ことがら」となると事情はかなり異なる。「ことがら」とは繰り返しになるが、価値観、思想あるいは宗教などである。これらは、人間個々が有する感受性がその良し悪しの判断根拠となっている。すなわち、各個人にとっての「感受しうる意味」において重要なものと、そうでないものに分節されているのだ。これらは例えば同じ宗教を信仰するものであれば、その感受しうる意味の同一性により支えられており、共通了解を得られる可能性が高いわけだが、異なる宗教を信仰するもの同士では、感受しうる意味の同一性は担保されない。したがって、共通了解の可能性が極端に低くなる。有史以来、人間は宗教的対立からあまたの戦争を起こし争いを繰り広げてきたことからも、この問題の重大性を良く理解できるだろう。

このような人間個々の世界認識に対する共通了解を導くための根本原理を取り出そうという試みが現象学の核心に他ならない。現象学の基本的な考え方は、僕たちのなかにどのように世界認識が成立するのか、その確信成立の根本原理を探るというものだ。この根本原理を探るための方法論「還元」と呼ばれるものだ。還元とは、あらかじめ客観存在、あるいは正しい認識というものをあえて一切前提としない思考プロセスである。そして、この前提を保留しカッコに入れること「エポケー(=判断停止)と呼ぶ。本稿ではその詳細に立ち入ることをしない。世界認識がどのような仕方で個々人に立ち現れてくるのか、薬剤効果を考えるうえではまずこのことが重要となる。

[薬剤効果の現象学

人間は薬剤効果を客観的「実在物」として“感じる”ことは現実的に不可能であり、人間にとっての薬剤効果の判断基準は「ことがら」に属する

薬剤効果という「ことがら」について、その効果がある、というのはどういうことなのか。血圧の薬であれば血圧が下がることをその薬の効果と言うのか。それとも寿命が延びることをその薬の効果と言うのか。血圧が下がると言ってもどの程度下がれば効果として認められるのか。寿命が延びたとして、いったい何日延びれば効果と言えるのか。

寿命と言う時間は年単位、一か月単位、1日単位、時間、分、秒…切れ目のない連続性の中で、いったいどこからが寿命が延びたという効果につながるのか。人間は個々人でこのような連続的な薬剤効果の有効性尺度を備えているが、人間が意識の中で薬の「効果」を規定しているもの、それはこの薬剤有効性尺度を「感受しうる意味」により分節することだ

主観的な薬剤効果、すなわち感受しうる意味により判断される薬剤効果を考えるうえで、実は医療従事者によって理論的に構造化された薬剤効果(例えば統計学的データ)はあまり大きな意味を持たない。人は薬剤効果を裏付けた学問的正当性の存在と言うよりはむしろ自分の認識の中で意味のある物かどうかと言うところで薬の効果を判断している。そしてその効果の尺度は有効性という連続帯の中で個人の感覚的なもの(すなわちこれが“感受しうる”ということ)によって分節されているのだ。このように「感受しうる意味」の分節、は個々人で異なるがゆえに、薬が効いたという確信の程度は人間個々で大きく異なることがあるわけだ。

薬の効果において、真のアウトカムと代用のアウトカムという軸は大切であるが、さらにそれぞれの効果の尺度は連続帯で存在するという事であり、人間がその尺度を、感受しうる意味を根拠に効果あり、となし、に分節しているという、もう一つの軸が存在する。連続帯の中のどこからが「効果あり」なのかは人間の「感受しうる意味」により変化するため、原理的に、画一的な共通了解が得られるわけではない。

また真のアウトカムは多くの場合、自分自身でその効果を確かめることが相当困難である。例えば死亡リスクが減るという真のアウトカムは、統計的手法でこそ示せるものの、これはあくまで現象を可視的に構造化した客観的存在物であり、これを主体は感受できない。したがって、現実的には多くの人が代用のアウトカムを基準に主観的な薬剤効果を判断していると言えよう

これまで述べたようにヒトは生物学という科学理論で合理的な解釈ができるような認識があるかと思えば、一方では自分の認識の中に存在する「感受しうる意味」で編まれていることの方が多いという事はありうるのだ。プラセボ効果と言うのは、体の中での生化学的反応、薬理学的反応、薬物動態学的反応と言うよりはむしろ、人間個々が規定する「感受しうる意味」によって基礎づけられている。

 これは真のアウトカムに関してエビデンスと言う客観的データの前に圧倒的無力な健康食品について考えてみるとわかりやすい。健康食品が「効くのか」「効かないのか」という判断は、客観的な臨床試験データに基づく有効性の強弱が重要なのではなく、感受しうる意味に基礎づけられた価値観が、人間ここが持ちうる薬剤有効性尺度の連続帯にどこに切れ目を入れるかという問題である。人によってはこの健康食品がよく効いた、とか全く効果ないよ、と言うのは、代用のアウトカム、真のアウトカムに関わらず、個々人にそなわる「感受しうる意味」が大きなウエイトを占めてくるといえよう。

 そのことを踏まえたうえで、薬剤効果を考察すれば、「薬が効いた」というのは、人間個々が有する薬剤有効性の連続尺度に対して、「感受しうる意味」に支えられた了解を得られたときに確信される直観的感性である。これは恣意的な分節などではなく、感受しうる意味に根拠づけられた疑いようのない確信、すなわち内在の根拠といえよう。