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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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続・病名の存在論的差異

ソシュール オースティン フッサール 病名

これまで、病名について「モノ的」「コト的」そして、さらにコンスタティブな病名、パフォーマティブな病名という新しい概念を導入し、病名における存在論的差異を考察してきた。とりわけ健康と疾患の境目があいまいな慢性的疾患において、病名付与が人に与える影響に関して、負の側面を強調してきたかもしれない。世の中は、病気の早期発見、早期治療という方向に傾いている。だから、ここで負の側面を強調することには、少なからず意味のあるものだと思っている。だからと言って、病気の早期発見や病名付与が悪であるという立場をとらない。人間は自由に選択する権利があるわけで、僕は選択肢が多いほど、人はより自由に生きることができると思っている。

[病名により救われる人もいる]

化学物質過敏症という疾患をご存じだろうか。化学物質過敏症とは健常人であれば、全く問題とならないような微量な化学物質にさえ敏感に生体反応を起こし、多臓器にわたり、多彩な症状を呈する疾患である。(※1)

2009年に保険病名として化学物質過敏症が登録され、患者が知覚しうる現象から、「化学物質過敏症」という言葉により概念が分節し、疾患として具体化されたものの、その概念普及は、いまだ完全とは言えないだろう。

化学物質過敏症の病態についても不明な部分が多く、診断基準が明確に確立されているとは言い難い。疾患の成立には臭気や先入観などが関与し、明確な根拠がないとする懐疑論もある(※2)

しかしながら、現象学的考察に基づけば、客観的な疾患メカニズムが証明されていようがいまいが、当の患者にとっては、そんなこととは独立して、身体不条理は確かに知覚されているのであり、それは確信として疑えないものだという事なのである。このように明らかな客観指標がないこと、また発症メカニズムの不確定性や、症状が不定愁訴でることなどから、時に心因性などとされたり(※3)、適切な病名が付与されないという事態は十分に起こり得る。

[病名が付与されないという苦しみ]

明らかな身体不条理を知覚しているのにもかかわらず、病名が定まらないというのは、患者本人の不安のみならず、治療概念そのもの適応が困難である言う事である。疾患とは、患者自身の身体不条理から、病名という言葉によって分節されることで、はじめて疾患概念として成立するわけであって(※4)病名が定まらない限り、明確な疾患及び治療概念はこの世に存在しない。そのため、当該身体不条理に対して、社会や医療はなんらサポートできない。これは非常に重大な問題を孕んでいる。医療は実体概念化した身体不条理しか扱えないのである。

現代医療は、実体すべき疾患を実体化せず、実体することにあまり意義のない疾患を実体化している、そういったことはないと明確に否定できるか?

病名により救われる人は確かに存在する。

[病名の存在論差異を埋めるには]

病名の付与、病気の早期発見により救われる人もいるのはまた確かである。しかし、それは全ての人ではない。救われる人もいれば、全く関係のない人もいる。むしろ救われない人もいる。そういうことである。医療者にとっての病名と、患者にとっての病名の存在論的差異については、前回考察したので、ここで詳細は述べない。(※5)

病気を早期に見つけるというのが、健全なイメージだとして、病気を見つけない、と言う選択肢はあまり注目されない。病気を早く見つけた方がいいに決まっている。そんな価値観が大多数を占める中で、非常に重要な論文が報告された。

マンモグラフィーによるスクリーニングの実効性については賛否あるがここでは詳細に触れるつもりはない。ただスクリーニングによって、取るに足らない病変も、また見つかってしまい、過剰診断や、過剰治療を導くことは疑いの無いように思える。過剰診断についての情報提供が、50代の女性で、乳癌スクリーニングにおけるinformed choice(医療者の十分な説明を前提とした、患者の能動的な選択)のための決定支援となるかどうかの検討を行ったランダム化比較試験が報告された。(※6)

この報告は、電話にてリクルートした48歳~50歳の女性879人(過去2年間にマンモグラフィーを受けておらず、本人に乳癌の既往が無く、また強い家族歴もない患者)を対象に、エビデンスに基づく過剰診断、乳癌死亡の減少効果、偽陽性についての説明、定量的情報の提供を行った440人と、単に乳癌死亡減少効果と偽陽性についてのみ説明した439人を比較し、割り付け3週後の十分な知識、及びスクリーニングへの意志と態度の一貫性で定義された、informed choice(医療者の十分な説明を前提とした、患者の能動的な選択)の割合を検討している。

その結果、informed choiceが得られたのは、介入群で24%、対照群では15%であり、介入群で9%有意に多いという結果であった。そして、注目すべきは、スクリーニングに対する前向きな態度は介入群で69%、対照群で83%スクリーニングへ意志は介入群で74%、対照群で87%であったことだ。いずれも一次アウトカムではないのだが、介入群で有意に少ない。

繰り返すが、より詳細な情報提供においてはinformed choiceは上昇し、スクリーニングを選択しなくなる傾向にあるという結果だ。非常に重要な示唆であり、検診推進論者はこの点を軽視してはならない。すなわち、常識的価値観で検診を推奨するのではなく、エビデンスを踏まえたうえで、様々な選択肢を提示し、患者に決定させるという事が大切なのだ。病気の早期発見が悪いわけではない。病名付与により救われる人もいる。大事なのは健康的なイメージの押しつけではなく、多くの情報を十分に提供し、患者が自由に選択できるという仕方で、関与すべきなのだ。このような仕方でしか、病名の存在論的差異を埋めることはできないのであろうと僕は考える。


(※1) Cullen MR. The worker with multiple chemical sensitivities: an overview. Occup Med. 1987 Oct-Dec;2(4):655-61. PMID: 3313760

www.ncbi.nlm.nih.gov

(※2) Das-Munshi J, Rubin GJ, Wessely S. Multiple chemical sensitivities: A systematic review of provocation studies. J Allergy Clin Immunol. 2006 Dec;118(6):1257-64PMID: 17137865

www.ncbi.nlm.nih.gov

(※3) Staudenmayer H, Binkley KE, Leznoff A,et.al. Idiopathic environmental intolerance: Part 2: A causation analysis applying Bradford Hill's criteria to the psychogenic theory. Toxicol Rev. 2003;22(4):247-61. PMID: 15189047

www.ncbi.nlm.nih.gov

(※4) 病名とは何か、ソシュール言語学から垣間見る疾患成立の恣意性.思想的、疫学的、医療について

syuichiao.hatenadiary.com

(※5) 病名の存在論的差異. 思想的、疫学的、医療について

syuichiao.hatenadiary.com

(※6) Hersch J, Barratt A, Jansen J.et.al. Use of a decision aid including information on overdetection to support informed choice about breast cancer screening: a randomised controlled trial. Lancet. 2015 Apr 25;385(9978):1642-52. PMID: 25701273

www.ncbi.nlm.nih.gov