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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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薬の現象学~第3回:因果関係に関する予備知識~

前稿で僕たちは薬剤効果に対する複数の視点を得た。非常に重要な観点なので、簡単におさらいしておこう。まず一つ目は、薬剤効果は今現在においてありありと感じている身体不条理、すなわち鼻水や発熱、のどの痛みなどの知覚できる症状を緩和するための対症的薬剤効果である。そしてもう一つは、今現在において知覚できるものではないが、将来的になにか重大な身体不条理が発生しうるリスクが高いがゆえに、そのリスクの低減を目的とする予防的薬剤効果である。なお予防的薬剤効果の効果指標にはリスクを推測するための検査値データ、すなわち血圧や血糖値、骨密度なの検査データを用いるが、薬剤効果を考えるうえでは、薬を飲む人個別の時間軸の中で、将来的なリスクがどの程度先延ばしされるのであろうか、そのような観点が重要であると論じた。

予防的薬剤効果において、将来的に想定される「リスク」そのものは身体不条理として知覚できないし、将来起こり得る重大な身体不条理も今現在において知覚できるわけではない。したがって、薬剤効果は検査値データが是正されたかどうかという代表の指標で評価するよりほかなく、その数値の是正をもって僕たちは予防的薬剤の効果を確信している構造が垣間見えたわけだ。

これまで考察してきたことは端的に言えば以下の結論を導き出す。すなわち、薬剤効果とは薬を服用することによって、今現在の身体不条理や、平均値からずれている検査値データ、あるいは将来的な、重篤な身体不条理に対してもたらされる効果という事である。薬を飲むことが原因となって、その結果、症状がどのように変化していくのか、この原因と結果の連なりについて本稿では考察していく。

[現象を引き起こした"現象"を追え!]

原因と結果の連なりを因果関係という。例えば、僕が寝不足だったとしよう。原稿の提出期限に間に合わず、慣れない英語の参考文献を必死で読んで、やっと原稿をまとめ上げたときにはもう朝であった。そんな状況で出勤し、もうろうとする意識の中で、つまらないミスをしてしまった。幸いなことに重大な事故につながらなかったが、その過誤に対する報告書を書かねばならず、その日終わらすべき業務がほとんど終わらなかった。そんな状況を想像してみてほしい。

その日の業務が終わらなかった原因は何だろうか。過誤に対する報告書を書かねばならず、そのために割いた時間によってその日の業務を終わらせるのに必要な時間が足りなくなってしまったからである、そんな風に考えられる。ではなぜ過誤を起こさねばならなかったのだろうか。それはもうろうとする意識の中で業務をせざるを得なかったからかもしれない。そしてなぜもうろうとしていたのか、それは明らかに寝不足だからである。そしてその寝不足の原因は、自分で選んだテーマが全くの専門外で、参考文献から読み込まねばならない、非常に作業量の多い原稿を朝まで書いていたからに他ならない。

整理しよう。原稿執筆作業が原因となって、その結果寝不足になった。寝不足が原因となって、その結果、翌日の意識がもうろうとしていた。もうろうとした意識が原因となって、その結果、業務で過誤を起こしてしまった。起こした過誤の報告書作成に時間を取られたことが原因となって、その結果、終わらせるべき業務ノルマが達成できなかった。お気づきだろうか。原因となった現象と、その結果起こった現象の連なり、これを指しあたって因果関係と呼ぶわけだ。

[因果関係など存在しない?]

「因果関係など存在しない」と、なんだかものすごい主張をした人物がいる。デイヴィッド・ヒューム(1711~1776)は、人間はその習性として因果関係ととらえてしまうのだ、と主張する。つまり人間は今起こっている出来事に法則性を見出してしまう生き物だというのである。因果関係だと思っているものは何度も同種の出来事のペアが引き続いて起こるのを見た人間側の思考の癖に過ぎないというわけだ。

しかし、これはやや言い過ぎかもしれない。僕たちは経験的に、因果の連なりを前提として日々生活している。考えても見てほしい。例えば、かなりのハイスピードで車が行き交う国道があったとしよう。この国道は常に車が行きあい、途切れることはない。因果関係なるものがなく、それはただの思考の癖なのだとすれば、猛スピードで走っている車の前にあなたが飛び出したとしても、それが原因となって、車に跳ね飛ばされ、その結果死ぬという事もある種の錯覚にすぎないという事にある。しかし、走行している自動車の前に飛び出せば、どうにもその自動車に跳ね飛ばされ、どんなに軽く見積もっても大けがするという事は疑いのないように思える。飛び出しが原因で、その結果、自動車に跳ね飛ばされ、そして死亡、もしくは大けがをすることはあまりにも自明のこととして想定できる。つまり、人はあまりにも必然性が明確に感じられるような状況において、その因果関係を疑えないし、疑う動機も持たないということである。

ただここで注意したいのが、確かにヒュームの指摘したとおり、因果関係はある種の錯覚性を帯びているという点だ。僕たちは日常の中で、因果関係というものを頭に描いて生活しているという側面がある。したがって、なにがしかの関連が見受けられれば、それを因果関係だと思い込むという事は多々ありうる。少々わかりにくいであろうか。少し具体例を挙げよう。 

あなたが新聞を読んでいたとする。その記事にはなかなか衝撃的なタイトルがあった。「テレビを6時間見る人は心臓病になりやすい」この記事を読んだあなたは、どうもテレビを毎日、長く見ている生活をしていると心臓病になりやすくなるようだ。テレビの見すぎはやはり体に悪いんだなあ。俺も心筋梗塞やってるから、テレビはあまり見ないようにしようと思うかもしれない。これは、テレビを6時間以上見ることが原因となって、その結果心臓病が増えるという因果の連なりを頭に思い描いているという事に他ならない。

しかし、原理的にはその因果性は疑いの対象となる。例えば、心臓病が増えた原因はテレビの視聴時間ではなく、食習慣や喫煙の影響ではないのか。そもそもテレビを長く見る人は寝たきりの人が多く、もともと心臓病のリスクが高い人ではなかったのか、そんな批判が可能であり、そうなるとテレビの視聴時間と心臓病の発症に関する因果関係が明確に成立するとは言い難い。

また、もし仮にテレビの視聴時間が心臓病の発症の原因となっている因果関係のだとしたら、テレビの視聴時間が長いと心臓病が増えるのは、いったいなんで?と言う疑問がふつふつ湧いてきそうだ。テレビから出るなにがしかの光線が心臓に悪影響を与えているのか、それともテレビを見ることで座りがちな生活スタイルが心臓に良くないのか、いったいどんな因果メカニズムで心臓病が増えているのだろうか。

原因となる現象、そして結果引き起こされる現象。この二つの現象そのものは直接観察できるものである。先の例で言えば、テレビを1日6時間以上見る生活スタイルという現象、そして心臓病が発生したという現象はいずれも観察可能でありうる。しかし、その現象と現象をつなぐメカニズムは見えない。これはどうやっても人間に可視化することは困難なように思えるのでる。そういった観点からすれば、原因と結果の連なりととらえる思考プロセスは人間の癖であるとするヒュームの主張を完全に否定することもまた難しいかもしれない。

[疑う動機を持てる(因果)関係]

因果関係と呼ばれるようなものには少なくとも次の2つがあるように思われる。それは疑う動機を持つことができない因果関係と、疑う動機を持つことができる(因果)関係だ。(因果)と括弧をつけたのは、これは厳密には因果関係ではないからだ。冒頭の例をもう一度考えてみよう。

①原稿執筆作業が原因となって、その結果、寝不足になった。

②寝不足が原因となって、その結果、翌日の意識がもうろうとしていた。

③もうろうとした意識が原因となって、その結果、業務で過誤を起こしてしまった。

④起こした過誤の報告書作成に時間を取られたことが原因となって、その結果、終わらせるべき業務ノルマが達成できなかった。

この4つの連なりの中で、③は因果関係かどうか非常に多くの疑う余地が残されていると言えないだろうか。他の連なりにおいても程度の差はあれ、疑いの動機を持つことは可能だが、過誤を引き起こす要素は多岐にわたる。業務の難易度、忙しさ、様々な要因が重なり、過誤が起きたと考えられる。確かに睡眠不足が大きな原因であったとしてもそれ単独で起きたわけではないかもしれないし、しっかり寝ていたとしても過誤が起きていた可能性は誰にも否定できないわけだ。

原因と結果、二つの現象の間をつなぐ何か、どんな因果メカニズムがそこにあるのであれ、また因果メカニズムがなかったとても、事実として観察できる現象の間の何かは「関連」と呼ばれる。因果関係も関連の一つではあるが、一見すると因果関係のように見えても、疑う動機が多く残された関係は、真の因果関係とは言えず、単になんらかの関連を示唆しているに過ぎない。

僕たちはこれまで2つの大きな示唆にたどり着いている。整理しよう。まず物事には、その必然性ゆえに原因と結果の連なりを疑えない関連、すなわち因果関係があるという事だ。金属バットで窓ガラスをたたけば、ガラスは割れるだろう。バットでたたくことが原因となり、その結果ガラスが割れることは、大人であれば容易に想像がつく。これは過去の経験的な示唆から、明らかに因果関係の必然性が確信されるためである。ガラスが割れることを知らず、金属のように硬いものだと確信している小学生だったら、バットでたたくくらいでは割れないと思うかもしれない。しかし、ガラスが物理的圧力に弱いことを経験的に知っていれば、バットでたたいたら割れるでしょう、なんてことは自明のこととして確信されるのである。

そしてもう一つは、必ずしも明確な因果関係とは言えないような、疑う動機を持つことが可能な関連である。「ライターを持っている人は肺癌になりやすい」と言うデータがあったとする。これも関連の一つであるが因果関係ではない。胸ポケットに入れたライターから何か不吉なエキスが漏れ出て、それが胸から吸収され、それが原因で肺癌になるなんて因果関係を想定する方が難しい。ライター所持と肺がんの関連、その正体は一般的には喫煙による見かけの相関と言えよう。ライターを所持している人は同時に喫煙者である可能性が高い。そしてその喫煙は肺がんのリスクファクターであることは様々な研究で示唆されている周知の事実である。この場合、喫煙と肺がんの関連は疑えないものとして確信される。すなわち因果関係として記述できるというわけである。

[関連の5分類]

関連は因果関係であることもあれば、ライター所持と肺がんのように因果関係ではないこともある。本稿では関連を5つに分類する。すなわち、①偶然、②バイアス、③交絡、④結果→原因、⑤原因→結果だ。順に解説していこう

①偶然

これは偶然そうなっただけのことである。ある現象とある現象の連なりは偶然であり、そこに何らかの因果関係があると人が感じてしまった場合、それは錯覚にすぎない。例えば、電車に乗るために切符を買ったとしよう。目的の駅までは310円であった。駅に着くと、宿泊先のホテルに向かうため、バスに乗り換える。運賃は310円であった。そしてホテルの客室番号はなんと310号室。ひとはこのような状況で何か奇妙な関連を知覚しうるが、これが原因と結果の連なり、すなわち因果関係だとは思わない。電車の運賃が310円だったからと言って、ホテルの客室が310号室とは限らないだろう。たまたまそうなったと思うよりほかなく、ただの偶然の一致に過ぎない。

②バイアス

何やら難しい言葉である。端的に言えばバイアスとは「かたより」と言うような意味合いである。日本語では系統誤差などと呼ばれる。(対して偶然はそのまま偶然誤差と呼ばれる)バイアスにもいろいろあるが、一つ具体例を示そう。

例えば、学校でテストをしたとする。点数が高い人と低い人を比較して、勉強時間を調べてみた。すると、点数が高い人で1日3時間、点数が低い人で30分であった。この結果から勉強時間とテストの点数は因果関係にあると言えるだろうか。点数の高い人は、自分はたくさん勉強したなあという意識が働き、日々の勉強時間を多めに見積もっていたかもしれない。また点数の低い人は、俺は勉強してなかったからなあ、と日々の勉強時間を少なめに見積もるかもしれない。勉強したのに点数が低いなんてちょっと恥ずかしい、そんな思いもあるかもしれない。すると、真の勉強時間の間には実はそれほど明確な差が無い場合も想定できるかもしれない。

このように、過去の記憶は思い出すという行為の動機の強さにかかっている。そしてそれは、いったいなにが原因でおこったのだろう、と思いこんでいる要因が強く思い出されることが多い。薬を飲んで副作用が出たとして、原因は薬なのか、その時の食事内容なのか、それとも偶然なのか、と考えたときに、やはり薬を飲んだことが一番強く思い出されるのではないだろうか。真の因果関係とは無関係に思い出されてしまう、この思い出し方のかたより(バイアス)を想起バイアスなどと呼ぶ。

③交絡

喫煙している集団と喫煙していない集団を比較して死亡のリスクを検討したとしよう。その結果、喫煙している人も、喫煙していない人もそのリスクは同じであったという結果が得られた。常識的に考えれば何かがおかしいと思うかもしれない。喫煙者では非喫煙者に比べて一般的に10年寿命が短くなるとが複数の研究で示唆されている。

ここで2つの集団をより調べてみたところ、喫煙していない集団ではその多くが高齢者であり、心臓病や糖尿病を有している人も多く、死亡のハイリスク集団であった。かたや喫煙者の集団では喫煙と言う要素以外は比較的健常な集団であった。背景の異なる2つの集団を比較しており、死亡というリスクに対して明らかにフェアな比較ではないことがお分かりいただけよう。

この場合、極力、喫煙以外の背景因子は2つの集団で同等にしておかねばならないのだ。年齢や有している疾患により、喫煙とは関係なく死亡リスクが高くなるような状態、この状態において、年齢や、有している疾患などの要素は交絡因子と呼ばれる。先に示したライターと肺癌の関連も喫煙という交絡因子により見かけ上、相関があったに過ぎない。調べたい要因とは別の要因により結果がゆがめられてしまうことを交絡と呼ぶ

④結果⇒原因の連なり

これは一見すると因果関係と似ているが、実は全く別物である。例えば、コレステロールが低いと癌になりやすい、という研究があったとする。しかしコレステロールが低いことが原因となって、その結果がんが起こりやすいのか、という因果関係も考えられるが、がん患者では栄養状態が悪く、その多くでコレステロールが低かったという可能性もありうる。癌であるがゆえにコレステロールが低いのであって、コレステロールが低いがゆえに癌になりやすいわけではない。

⑤原因⇒結果の連なり

これこそが真の因果関係である。

[科学的に見積もられた薬剤効果と実際の薬剤効果とのギャップ]

薬を飲んだから症状が改善した、というような薬剤効果は本当に因果関係なのであろうか。臨床研究と言われるような、人間を対象として、薬剤を投与しその効果を検討する疫学的研究は基本的には関連5分類のうち、因果関係以外の要素を極力排除し、薬とその効果の因果関係を検討していると言える。因果関係を論じるのに最も妥当な研究手法をランダム化比較試験と呼ぶ。薬剤の有効性については、基本的にはこのランダム化比較試験の示唆をもって判断することが多い。

ランダム化とはサイコロを振る要領で、研究対象の人たちをでたらめに2つのグループに分けるという手法である。交絡の影響を避けるために、年齢や性別、生活習慣や身体活動量などの研究対象者の背景をなるべく均一にして、フェアな比較するために行うためにランダム化を行うのである。

通常は薬を服用する集団と、偽の薬であるプラセボを服用する集団の2つの群にランダムに振り分け、心臓病や脳卒中、あるいは死亡などの発症頻度、あるいは風邪症状や痛みの度合などの症状のスコア(点数)の差などを検討する。

このような研究からの示唆はエビデンス(根拠)とも呼ばれ、薬剤の有効性を規定する科学的根拠である。この薬剤のエビデンスをもってして、医療者は薬剤効果を見積もることが可能となる。それは特に、実際に知覚できない予防的薬剤効果を見積もるのに有効な手段と言えよう。また、対症的薬剤効果についても、複数症例からの示唆は、目の前の患者に対しても一般化可能性に優れている。エビデンスに示される薬剤効果が、対症的薬剤効果、予防的薬剤効果を見積もるための手段となるわけである。

しかし、エビデンスに示されている薬剤効果と、実際に患者に知覚されうる薬剤効果はギャップがあることも珍しくない。ある人には効いたが、ある人には効果がない。エビデンスに従えば、それなりに有効な治療も、実際にはあまり効果がないこともしばしばである。また予防的薬剤効果についてはそもそもあまりエビデンスが重視されていないという側面もある。リスクを回避するという効果そのものは知覚できず、エビデンスが示唆する効果をありありと想像することが難しいのかもしれない。エビデンスが必ずしも因果関係を示していないという点も指摘できるかもしれないが、次回以降、そのギャップの構造を現象学的に考察してみようと思う。