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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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薬の現象学~第8回:薬剤効果の世界像を再構築する~

これまでの思索を振り返りながら、薬が効くとはどういう事か、あらためてその問いに向かい合い、現代医療における薬剤効果の世界像を捉えなおすという仕方で、医療に対するあらたな共通認識を提唱したい。その共通認識が、有限の医療リソースを最大限有効利用し、妥当な医療を全国民が享受できるような仕組みが構築されることだろう。

[薬剤効果の世界像、その共通認識の構築]

薬剤効果の世界像。本稿では大きく3つの世界像に分類した。詳細は第5回を参照いただきたいが、要約すると以下の通りだ。 

・人間個別の内在知覚に与える薬剤効果(人間個人に観察された個別の現象)

・科学的に妥当な因果関係を示したエビデンス(複数の人間を対象に観察された現象)

・科学理論(薬物の生物学的作用メカニズムによる仮説的推論)

この3つの世界像のうち、科学理論は超越的理論であり、人間が知覚することはこんなんな概念的な薬剤効果である。あくまでも仮説にすぎないため、理論による薬剤効果の世界像により、医療の枠組みを構築するという事は、仮説に基づく医療の推進に他ならない。全国民共通のリソースとして活用するには妥当しないものと思われる。

仮にあなたが糖尿病だったとして、マウスの実験で、血糖値が下がったといような薬剤成分を、明日から人間用の医薬品として、あなたなら服用したいと思うだろうか。基礎生物学的実験で示唆された効果が必ずしも人間も有効とは限らないし、また人間での安全性については全く未知な薬剤成分を人間の医薬品として用いるのはかなりの冒険である。ましてや化学構造式が類似しているから、おそらく糖尿病に有効だ、と言う理由で、糖尿病患者に実際に投与されるということは医療ではなく、単に人体実験である。

一方、人間個別の内在知覚に与える薬剤効果は、科学的に妥当な因果関係がある、なしに関わらず、知覚できる薬剤効果のことである。この内在知覚に与える薬剤効果をもとに医療の枠組みを構築するのは、プラセボでも医薬品として公的な医療システムの中で用いなければならなくなり、有限リソースの枯渇を促進するだろう。

例えば、ウイルスが原因で起こる風邪(上気道炎)に対して、細菌に対して有効な抗生物質(抗菌薬)の投与が、いくら患者が効くと言っても、その投与が本来推奨されるべきものではないだろう。

残されたのが、科学的に妥当な因果関係を示したエビデンスに基づく薬剤効果の世界像である。科学的に妥当な因果関係を示したエビデンスとは、具体的にはランダム化比較試験等の疫学的臨床研究である。またその効果指標は真の薬剤効果指標で検討されたエビデンスであることが薬剤効果を論じるうえで重要である。

[ランダム化比較試験とは]

ランダム化比較試験について簡単に解説しよう。薬剤投与と、薬剤の有効性、安全性の因果関係を論じるうえで、一番妥当性の高い検証方法と言われる。因果関係については、第3回を参照してほしいが、関連には①偶然、②バイアス、③交絡、④結果→原因、⑤原因→結果 の5つのパターンがあった。

ランダム化比較試験は偶然の影響を極力排除するために、対象となる被験者を複数せっていする。一人の人間を研究対象にしていてはたまたま効いただけ、という偶然の影響を排除できない。したがって、通常は数十人~数千人規模で研究を行う。

集められた被験者は、薬剤を投与する集団と薬剤成分を全く含まないが、見た目は薬剤と全く同じプラセボを投与する2つの集団に“ランダム”わけられる。ランダムとは日本語で無作為などと言われたりするが、端的に言えば、サイコロを振る要領で、でたらめに薬剤投与群、プラセボ投与群に被験者を割り付ける事である。このようにでたらめに割り付けることで、被験者の年齢や性別、生活習慣などが偏りなく二分され、③の交絡の影響を少なくすることが可能となる。

またバイアスを避けるために薬剤投与群とプラセボを被験者も治療を行う医師もどちらが割り当てられているか全くわからないようにする二重盲検という手法が用いられること多い。人間は、その内在知覚からえられる薬剤効果が、実際の科学的に妥当な因果関係と無関係に得られてしまうことがあり、たとえプラセボでも有効性が得られてしまう(プラセボ効果)が起こり得るのはこれまでの思索からも明らかであろう。

また研究は薬剤を投与して、時間軸で追跡調査する。過去に遡って調査するわけではなく、治療を数か月間や数年続けて、心臓病や脳卒中の発症などを2群間で比較するのである。したがって時間軸は前向きであり、未来に向けて検討する。これは④の原因⇒結果 の関連を原理的に排除することが可能だ。薬剤投与から結果が得られるまでの時間軸は前向きであり、原因が必ず先で、結果は未来がそのあとの時間軸だからである。

関連5分類のうち4分類を極力排除するための研究デザインになっておることがお分かりいただけよう。したがってランダム化比較試験から得られた示唆は、科学的に妥当な因果関係を示唆すると言えるのである。もちろんあくまで“妥当な”であり“真の”と言うわけではない。ランダム化比較試験と言えど、完全に偶然やバイアス、交絡などの影響を排除できるわけではない。特に研究参加者が一般的な人口集団の特性とかけ離れている場合、その結果の解釈はより一般的なものではなくなってしまう。 

[薬剤効果の関心相関性

薬物治療開始時点においては、いまだ薬剤を服用しておらず、その効果についてどんな内在知覚が得られるのか、患者本人にもわからない。

薬剤は病名が付与され薬物治療の対象となった身体不条理に対して投与される。したがって、病名に対応した薬剤、たとえば鼻水が出ていたら、鼻炎という病名が付与され、鼻炎に効能を有する鼻炎薬が投与されるわけだが、鼻炎という病名がパフォーマティブな仕方で患者に認識される際に、鼻炎薬の薬剤効果もパフォーマティブになりうる

鼻炎でない時に鼻炎薬を服用しても、なにか症状が改善されるというような内在知覚をもつことは多くの場合で難しいだろう。この場合、鼻炎は今まさにコトとして迫っているわけではない、いわばコンスタティヴな仕方であり、それに対する鼻炎薬もモノ的な薬剤効果に過ぎない。しかし実際に鼻炎症状が出ていたら、鼻炎薬に対してパフォーマティブな仕方で関わることになる。そこに薬剤効果の関心が生まれる余地がある。

糖尿病などの慢性疾患用薬でも同様だ。健常者が糖尿病治療薬を飲もうとは思わない。むしろ低血糖などの副作用が出て有害なだけである。糖尿病薬に健康上の関心はほとんどないだろう。しかし、実際に明日、糖尿病と言われたらどうだろうか。同じ糖尿病治療薬がパフォーマティブにかかわってくる。この薬を飲めば、少なくとも今の状態よりは健康上、有意なポジションに立つことができるという関心が働くはずだ。でなければ、私は糖尿病だろうが薬は一切不要です。と明確に答えることができる人間である。

このようにしてパフォーマティブな病名により生成された関心は少なからず、内在知覚に影響を及ぼす。したがって薬剤効果も病名がパフォーマティブに関わることで、その効果が変化すると言えよう。

患者個別の内在知覚に依拠した薬剤効果はどちらかと言えばパフォーマティブである。あらゆる関心により影響をうける。薬剤効果を過信している人にはより良い効果が知覚されるかもしれないし、薬剤効果を全くあてにしていない人には、何の知覚もないかもしれない。また現在知覚している身体不条理の度合や関心にも大きな影響を受けるであろう。激しい疼痛であれば、因果関係はどうあれ、プラセボでも痛みが和らぐという事はありうる。

[エビデンスに基づく薬剤効果の世界像]

ランダム化比較試験での薬剤効果は統計的手法により比較検討される。端的に言えば、脳卒中や心臓病などの成り行きがどのくらい発症したか、その頻度を比較するのである。そして薬剤服用群の発症率とプラセボ服用群の発症率を相対的に比較して、例えば20%減少した、とか30%増えた、というような記述が行われる。

これまで、人間個別の内在知覚に与える薬剤効果と、科学理論に基づく薬剤効果の世界像ついて、その問題点について述べ、残った科学的に妥当な因果関係を示したエビデンスに基づく薬剤効果の世界像について解説した。現時点での僕の結論を要約すれば、薬剤効果という因果関係の再現性は頻度で比較するより他ない、ということである。薬によってどうなるか、治療方針を決定する時点において、患者はまだ薬剤効果を知覚しておらず、それを知ることは原理的には不可能だ。つまり、これは予言という形式だから、薬を投与する時点で明確にどうなるかを知ることはできないということなのである。薬を使うとどうなりうるかについては、統計的に推論するよりほかない。要は再現性の頻度の問題に帰着するというわけだ。因果関係以外の関連の仕方を極力排除し、統計的思考を導入することによって薬によってどんな成り行きをもたらしうるのか、その程度を類推することが可能となる。

[エビデンスが示唆する薬剤効果を基盤とした世界像の構築]

現代社会において薬物治療の常識を形成するものは、その多くが人間個々の内在知覚によるもの、もしくは科学的理論である。個別の現象か、超越的理論か、どうも2極化しているように思われる。しかし、いずれも妥当な因果関係とは無関係に成立してしまう、薬剤効果の世界像であることはこれまでの示唆から明らかであろう。制度としての医療は科学的妥当性を有していることが必須の条件であるにも関わらず、現代医療における薬剤効果の世界像はやや歪んでいるように思える。

ランダム化比較試験のようなエビデンスは全世界に共有される知的リソースであり、基本的には英語で書かれた臨床医学論文という形式で存在している。

臨床医学論文、すなわちエビデンス情報は米国国立医学図書館内のNCBI(国立生物 科学情報センター:National Center for Biotechnology Information)が作成しているデータベースPubMedよりネット検索できる。多くのエビデンス情報の抄録(要約)が無料でアクセスできる。さらに一部の論文は前文がフリーでアクセス可能だ。しかもこれはネットワークに接続できる環境であれば、だれでも実行可能なのである。

これは何を意味するのだろうか。端的に言えば、情報の引き出し方さえ知っていれば、英語ベースで最先端の医療情報に無料でアクセスできることを意味しているということである。今手に入る、最先端の知は、医学、薬学に関する教科書でも専門書でもなく、そしてマスメディアから流れる医療情報、健康情報でもなく、ネットワークに存在する臨床医学に関するエビデンス情報なのだ。僕たちは、情報の引き出し方さえ知っていれば世界最先端、そして最高峰の知に無料でアクセスできる立場にいることを忘れてはならない。しかもこれはネットワークにアクセスできれば世界共通なのである。

このグローバル社会がもたらした、世界共通の知的情報自由化社会は、世界の奥地にすむ未開の人が、スマートフォン端末でネットワークにアクセスでき、英語が読めるなら、簡単にその分野の権威と呼ばれるような専門家をうならせるほどの論客になれる時代ともいえる。

薬に関する情報はネットワーク上に無数に存在しているが、少なくとも一般の人がアクセスできる情報はエビデンス情報ではない。グーグルなどの主要検索エンジンで、医薬品に関する検索を行えば明らかではあるが、臨床医学に関する原著論文のようなエビデンス情報が検索トップに出ることはまずない。情報があっても、手の届かない、そんな現実があるのである。

したがって、実際の医療の枠組みの中において、臨床医学に関するエビデンス情報は、現実的には非英語圏の非医療従事者にとって、優先的に参照する情報源としては、一般的ではないだろう。しかし、医療者であっても、実際にエビデンスを自身が適用する医療に積極的に用いることは困難なケースが多々ある。それは世間一般の薬に対する価値観が、エビデンスをベースに構築されていないからだ。

風邪に抗菌薬がどんなに不要だ、というエビデンスを用いても、患者にとっては風邪の特効薬と認識していれば、患者の希望を頭から否定し、薬など飲まないでよろしい、とはっきり言える医療者は少ないように思える。ドラックストアなどで、薬を買いに来た顧客に、エビデンス的には薬など無効なので、家でゆっくりしていた方が良いです、とは言いづらいのではないだろうか。なぜならば、その客はなにか少しでも症状が改善するような薬を既に買い求めに来たのであり、この時点で薬の価値はすでに顧客側に決定されている。

高血圧や、糖尿病などの慢性疾患はさらに複雑だろう。予防的薬剤効果について、多くの国民がどの程度あるのか、情報として共有されていない。一部の糖尿病治療薬や高血圧治療薬が心臓病による死亡や死亡全体を大きく減らすものではないというエビデンスの示唆があるにも関わらず、しっかり飲んでいるから調子が良いです、と言うようなことが現実には怒っている。病名付与による健康への関心が、なにか調子の良いという内在知覚を生み出しているのかもしれない。なぜなら、本来は薬を飲もうが飲むまいが、あるのは将来的なリスクの増減のみであり、今現在において、著明な身体不条理を感じているわけではないからである。

以上を踏まえると、ごく一般的な健康問題、身近な医療における薬物治療のエビデンス情報はより広く国民に共有され、薬剤効果の世界像を科学的に妥当な因果関係を基盤に構築されなければならないと僕は思うのである。

[曖昧なまま、現象を追う事]

この論考で考察してきた薬剤効果について、その有効性は科学的に妥当な因果関係とは無関係に成立する可能性、そして病名付与による関心相関的に立ち現れる可能性などを示してきた。いうなれば、薬剤効果とは非常に曖昧なものであるという事だ。これは多くのエビデンスも示していることだが、ランダム化比較試験で明確に薬剤の有効性が示唆されることの方がむしろ少ない。多くの場合が、効くかもしれないし、効かないかもしれない、全体として効く傾向にある、と言うようなかなり曖昧ものである。医療はリスクとベネフィットの二重性を有している。どちらか一方が強調されれば、どちらか一方が見えなくなってしまうが、それは医療を単純化してとらえている思考停止に他ならない。

しかし、人は曖昧なものを曖昧なまま受け入れる事が苦手だ。言葉とは何か、分類とは何か、で考察してきたように、人は「あれ」と「これ」を区別し、「あれ」を「あれ」として、「これ」を「これ」として理解している。そして「あれでもあり、これでもある」という事を受け入れるのはやや抵抗があるのだ。

一度決定的となった物の見方、考え方から離れるというのは相当困難である。あまりに整理整頓された分かりやすい枠組みが鋳型になって、僕たちはたった一つの見え方しかできなくなってしまう。曖昧な現象から目をそらすこと、人はそこに安心を手に入れるのだろう。しかし、薬剤効果の曖昧性は、疾患成立の恣意性や関心相関的に立ち現れる薬剤効果、そしてエビデンスの示唆そのもの曖昧せいからも明らかである。曖昧なものがほとんどだからこそ、あいまいなものとどう向き合うかが医療の本性ではないか。医療と言う枠組みの中で、医療者と患者双方がその曖昧性と向き合うことで、薬剤効果の新たな世界像、これまでにない価値観の想像を可能にするはずだ。

知的情報自由化社会において、僕たちを取り巻く薬剤効果の「常識」は常に塗り替えられ、新たな知見が過去の知見を否定することを繰り返している。医療者が妥当なエビデンスを発信し続ける事、あらゆるメディアがエビデンスに関心を示すようになること、また教育の現場でも次世代型の医療リテラシーを取り扱う事、そして多くの国民がエビデンスを基盤に薬剤効果の世界像を捉えることができれば、薬が効くとはどういう事なのか、おのずと見えてくるだろう。

[終わりに〜エビデンスと言語ゲーム〜]

言語ゲームとはルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889年- 1951)の主著『哲学探究』における基本概念である。

規則に従った人々の振るまい、端的に言えば言語ゲームとはそういえるかもしれない。ある言語ゲームを実行していると、事前に存在するか否かに関わらず、その言語ゲームの前提が実在し始める。そのゲームの内的視点にたつ限りゲームの前提を疑うことはできない。価値・意味が実在するから、価値・意味を求めるのではなく、価値・意味を求めるから、価値・意味は存在する。

現代社会における価値や意味、その解釈に至る歴史は言語ゲームの積み重ねである。生み出されたルールは物事の真理を表しているわけではない。原典に戻れば、今現在運用されているルールがいかに偏ったものであるのか、そういった視点を手に入れることもできる。

すなわち原典に当たることは社会がいかにでたらめな解釈でルール化されているかを明らかにする。マルチン・ルターが聖書の原典にあたり宗教改革を成し遂げたように。あるいは朱子学の原典を突き詰めれば、江戸幕府の存在前提を覆す大政奉還のロジックが用意されるわけだ。

原典に当たることは社会の常識を変える。社会がいかにてきとうなルールの言語ゲームで成り立っているかが浮き彫りとなる。原典に当たることは、時に社会にはびこる言説を根底からくつがえすほどの力になる。

原典、医療においては原著論文、すなわちエビデンスだ。僕たちは医療という言語ゲームの内的視点に立つ限り、その前提を疑うことができない。しかし原著論文の示唆はそんな内的視点とは独立した言語ゲームを生み出す可能性を秘めているといえよう。