思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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現前の形而上学と健康幻想論

例えば、先天性の疾患、あるいは不幸にも事故で身体機能を失った人、若くして重篤な疾患に罹患してしまった人にとって、健康とはかけがえのないものだろう。そのような観点からの健康というものはまた別な考察を要する。本稿では一般的な平均寿命の中において、年を経るごとに“「生」と「死」の間”の時間に人々が願う健康について、端的に言えば死にゆく慢性経過の中で浮き彫りとなる“健康長寿”と言う際の「健康」を指すと、考えていただければ幸いである。

人はだれでも“「生」と「死」の間”を生きるしかない。その“間”からいつしか人は目をそらすようになってきた。平均寿命が延び、死が遠ざかるにつれて、「死ぬというコト」が、「死ぬというモノ」として感じられる。すなわち、ありありとした死の実感から遠ざかることを目指し、ながらえる「生」の後に「死」が突如として現れるような生き方がまさに健康長寿の理想に他ならない。

健康的な生き方がある…

そう、「生き方がある」というのもひとつの幻想にすぎない。本来的な「生き方」というものをどこかに想定することは、自分にとっての「生きるということ」からの剥離を促す。そのような仕方で想定された「健康的な生き方」を渇望する思考プロセス、これをすなわち健康欲と呼ぼうと思うが、そういったことが多かれ少なかれ、生き方のデフォルトになっているのが現代社会であろう。これはデリダの言う現前の形而上学における階層秩序の序列と似た構造が見て取れる

[現前の形而上学脱構築

ソクラテスにはじまる西洋哲学の歴史において人間の真理を媒介するメディアはパロールにあると考えられてきた。パロールとは「話し言葉」であると考えて良い。それに対して書き言葉を「エクリチュール」と呼ぶ。伝統的な形而上学的視点でとらえるとエクリチュールは真理の存在を危うくするという。エクリチュールパロールの二項対立とその差異に注目したのは、フランス現代思想家のジャック・デリダ(1930年~2004年)であった。

言葉のうちからあらゆるエクリチュール的な要素を排除することにより、より理想的なパロールを追求すること、このようなロゴス中心主義、音声中心主義が形而上学の原点とも言えよう。デカルトにあらためて指摘されなくても、自我意識こそが世界を思考するという心身二言論がしみついていることは自明のように思える。たとえば僕たちは電話から聞こえてくる人の声、これはリアルタイムで主体の思考を媒介していると認識する。「メールじゃなくて実際にあって話したい」などのように書き言葉、すなわちエクリチュールよりもその心理を伝えうるのはパロールであるという事に違和感はないだろう。

「言葉は話されるために作られており、文字言語は音声言語の代理の役を果たすだけである。」

いわば、ロゴスとは概念性のみならず語られたコトバすなわちパロールとして理解されるわけだ。思考と発話された声、例えばカントの言う良心の声、ハイデガーの言う存在の声など形は音声中心主義ともいえ、デリダは音声中心主義とロゴスを結び付けている

形而上学では存在とは「イデア」のように現前的に存在すると思考する。現前とは現にここにある、恒常的実体の存在を前提とする考え方である。書かれた言葉、すなわちエクリチュールは、どのように伝達されるのかを考えたときに、エクリチュールパロールのような現前性を有さないエクリチュールの到来は発信主体から遅れて到達する。それゆえ、パロールこそが真理を媒介するメディアと考えられてきたのである。

現前の実現を目指す構造は存在するものの間に階層秩序をもたらす。頂点に樹立するのは完全なる現前、すなわちヘーゲルの絶対精神のような存在であり、存在する全のものを現前性という基準でランク付ける。現前性の形而上学は西洋哲学の思想の中心であり続けた。すなわち語られたコトバであるパロールこそがロゴスの現前であり、書きコトバであるエクリチュールはロゴスの模写であると言う従属性が前提となっているのだ。このエクリチュールパロールという対立は同時に優劣の序列を規定するエクリチュールの排除はパロールの特権化と表裏一体であり、形而上学とは階層秩序的な二項対立のシステムなのだ。

しかしエクリチュールはおろかパロールについてもよくよく考えてみると厳密な現前性を備えているとは言い難い。主体から発せられた音声は主体の認識に遅れている。パロールエクリチュールに先立つその根源をデリダは「原=エクリチュール」と呼び、音声中心主義を根底から覆す。人間は、ありのままの意識や認識を、言語を用いて直接的に表現することはできないのだ。ありのままの意識や認識は、言語を介して変質し、時間を経過して変化する。ここで、大事なのはエクリチュールの優越性を示すことではない。単純な逆転を目指すのではなく、抹消された劣位項の痕跡を暴き出すことにあるのがデリダ脱構築である。

[現前なる健康という思想] 

現前なる健康をありありと浮き彫りにするのが今の医療、そして自然科学だ。そして健康、不健康の二項対立、序列を生み出す。健康であることが前提。何か健康的な生き方なる現前があるという信憑性。しかし現前なる「健康的なモノ」は、おのれにとって「健康的なコト」として永久に感受できないにも関わらず幻を求める思想構造こそ、現前の形而上学と重なる。

健康を求める人間の思想構造は、健康な生き方と、不健康な生き方の二元論的思考、序列階層秩序の中にある。生きていくなかで、絶対的に正しい健康的な生き方が現前し、今自分はそこまでの生き方をしていない不健康な存在であるという自覚が医療を求める基本構造ではないだろうか。しかし絶対的に真なる健康的な生き方など、おのれの内部には存在しない。健康的な生き方とは、健康欲が編み上げる、幻想にすぎないという側面を有する。

形而上学的思考は階層秩序的な二項対立の優位に立つ項が純粋に現前し、劣位にある項が無に等しくなる場面を前提とすることである。劣位項が優位項に対して端的に外的存在であるならばなぜ劣位項をそれほどにまで排除する必要があるのか。不健康であることが良くないことのようなこの現代社会。不健康でもいいという選択肢はあまり支持されない。

また内部、外部の二項対立は完全には成立し得ないしその境界は曖昧だ。不健康と健康の境界はいったいどこにあるのだろうか。しかも死にゆく人の時間の中で、その時間の流れの中においても年老いてゆく、若き「正常」から老いる「異常」の中における境界線は不明瞭のように思える。健康と不健康という連続性は、絶えず揺れ動く差異の体型として存在している。健康的な生き方と言われるような方法、厳格な薬物治療で健康そうな生き方を目指すことこそ死亡リスクを増加させるというエビデンスは珍しくない。このことは2型糖尿病患者において、薬物による厳格な血糖コントロール治療をすると、心血管疾患は少ない傾向にあるが、死亡は多いという衝撃のランダム化比較試験に代表されよう。

Action to Control Cardiovascular Risk in Diabetes Study Group, Gerstein HC, Miller ME, Byington RP, et al. Effects of intensive glucose lowering in type 2 diabetes. N Engl J Med. 2008 Jun 12;358(24):2545-59.PMID: 18539917.

Effects of intensive glucose lowering in type 2 diabetes. - PubMed - NCBI

「健康的な生き方というモノ」は現前的な実体ではなく、言葉自身がうみ出した多義的なシンボルに過ぎない。そして現に僕らが感受しうる「健康的に生きるというコト」の中には、少なからず不健康な生き方が垣間見える。健康欲は「健康的な生き方というモノ」を志向する。だがしかし目の前に現れるのは健康的に生きるというコト」なのだ