【書籍】時間と自由意志 -自由は存在するか、存在するとすれば、自由とは何か?-
青山拓央さんの『時間と自由意志』を再読した。自由について、これほどまでに体系的に論じられた文献は、日本語ではまだまだ少ないように思う。
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時間と自由意志 自由は存在するか (単行本) [ 青山 拓央 ]
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なお、本書の序文の一部が「webちくま」に掲載されている。
ぼくらがナイーブに自由だと確信しているもの、その常識的な信憑を丁寧に紐解く中で明らかにされるのが諸成分のアマルガム(合金)としての自由だ【図】。
【図】アマルガムとしての自由(時間と自由意志P198 )
【自由意志】
自由意志とは、ぼくらがほかならぬ自分の意志によって何をするのかを決める自由であり、行為選択の起点である「起点性」と、他の選択も可能であったという「他行為可能性」がその前提にある。しかし、そもそも行為の起点などというものが存在するだろうか? これが決断の瞬間を特定することの困難さ、いわゆる「分岐問題」であり、本書前半の主題となっている。
『ありふれた行為でもそれを凝視するならば決定的要因は分からなくなる』(時間と自由意志 p29)
『歴史の分岐という考えは、じつはたいへん謎めいている。それが分岐であるからには分岐後のどの未来から見ても、分岐点までの歴史は同一のはずだ。しかし同一の歴史から、いったい何を根拠にしてその後の歴史が選ばれるのか。無根拠な歴史の選択は、選択というより偶然にすぎない』(時間と自由意志p33)
行為の起点は、一人称視点の内部に存在するのではなく、他者によって「発見」される。本書では「自由の他者性」と呼ばれる概念であるが、他者の意識が見えないからこそ、他者の身体行動の背後に自由意志の働きを想定する余地が生じることになる。このような観点から自由を眺めたとき、自由意志とは本質的に二人称的なものになる。自由意志は他者の中に朧げにしか存在しない。
【両立的自由】
ぼくらの行為や意志が、物理学や心理学などの法則のもとで、すべて決定論的に生じるのだとしても、水を飲むことを意志して妨害なしに水を飲んだのなら、ぼくらは自由に水を飲んだと言えるだろう。それはある種の自由感に近い。
決定論的世界観いおいて、不自由だとしてもなお、主観的な自由は存在しうる。だからこそ、ぼくらは行為について確かな「理由」を感じ取ることができる。
このような『したいことを妨害されずにするという、決定論と両立しうる自由』のことを、本書では「両立的自由」と呼んでいる。一人称の視点で自由を眺めたとき、たとえこの世界が決定論的単線であったとしても、人それぞれの文脈、すなわち「物語」は有効である。行為の源泉は物理的原因から心理的理由に求められていく。
【不自由】
三人称の視点で自由を眺めたとき、偶然と必然の中間地帯は消え、分岐問題への応答は偶然もしくは必然のどちらかに帰着する。そこにあるのは自由のなさ、つまり不自由ではあるが、自由意志と両立的自由は、このまさに不自由に脅かされることによって、不自由の再否定し、より自由を堅持していく。
『偶然と言うものが仮に存在するなら、自由意志はその一種であることによって、ようやく本当に存在することができる。偶然の一種であることは、自由意志にとって存在への限られた道なのである』(時間と自由意志p109)
【自由とは何か?】
自由であるということは【図】で示した三角形全体の内部を動き続けることであり、自由とは、各所の成分が不均一なアマルガムの総体であって、その成分比率として唯一のものはない。そして、その総体としての自由は、不自由と相反するものでなく、むしろ不自由はその一部なのだ。