自由の探究~イマヌエル・カント道徳形而上学の基礎づけ~
自由の探究。学びや臨床判断にとって自由とは何か。しばし探求することにした。今回は、マイケル サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』でも数多く引用されているカントの『道徳形而上学の基礎づけ』。カントの言う“自由”とは何か。なお引用は光文社古典新約文庫より中山元さんの訳である。また、以下内容は個人的なものであり、本書について学ぶには、少なくとも原著翻訳にあたられることを推奨する。
新品価格 |
【カントによる哲学の分類】
・実質的
自然学-必然的な法則の考察(自然哲学)
経験的な自然学
自然の形而上学
倫理学-人間の自由の法則の考察(道徳学)
経験的な倫理学(実践的な人間学※)
・形式的
論理学-思考の形式的な正しさに関わる。
カントは経験的な根拠に依拠している法則は「確かに実践的な規則ではあっても、これを道徳的な法則と呼ぶことはない」と明言している。目的を実現しようとする動機は経験的な形で認識されるものである。
【道徳形而上学の基礎づけの目的】
全ての経験的な要素を完全に排除した純粋な道徳哲学を構築すること
⇒そのための条件(すべての人間に対する義務として妥当するための条件)
・アプリオリな原理だけに基づいていること
・絶対的な必然性が備わっていること
道徳的な法則に適っている行為ではなく、道徳的な法則に基づいた行為を規定するためには純粋な道徳的原理の確立が必要。そのために経験的要素は排除されねばならない。本書の目的は道徳性の最高の原理を探求し、確定することにある。
【[善い意志]という概念】
引用:『善い意志は、それが何らかの目的に役立とうが、どんな成果ももたらすことができなかろうが、それによって価値が増えたり、減ったりするようなものではない。』
引用:『義務に基づいた行為が道徳的な価値をもつのは、その行為によってどのような意図が実現されるかによってではなく、その行為を実行することを決意させた行動原理によるのである。だから行為の対象の実現性によってではなく、意欲の原理によってである。』
引用:『ある行為に道徳的な価値を与えるのは、その行為によって生みだされると期待される結果ではない。』
カントはつまり、善の根拠を、善とはなにかという実質的なかかわりではなく、主体の意志のありかた、というような形式に求めた。
本書では具体例もいくつか紹介され理解の助けとなる。カントによれば自殺は道徳的な行為ではない。これは自分自身に対する完全義務の実例として挙げられている。驚くべきことに他者への親切も道徳的な行為ではない。これは他者に対する不完全義務の実例として挙げられている。
カントは『人間が自分の命を守るのは義務である』と考える。生きる意味を喪失し、それでも強く生きることを選び自分の命を守るのであれば、それは義務に従った道徳的な行為であり、善い意志の行為とみなされる。
他者に親切にするのは「義務」だが、同情心が強く、他者を親切にすることが、同時に自己に喜びをもたらすような仕方は同情の満足に他ならない。これは善い意志による、道徳的な行為と見なされない。カントはある行為に満足や利益が生じる場合には、その行為に道徳的な価値はないと主張する。直接的な心の傾き、つまり傾向性の入る余地の存在が道徳的価値を奪うのである。
どうして義務に基づく行為に道徳性があるのだろうか。ある行為に道徳性がうまれるのは、つまり、どのような意図が実現されるかによってではなく、その行為を支える格率=行動原理なのである。これは、行為のもたらす善悪評価を天秤にかける功利主義とは間反対の考え方だ。そして、自分の行動原理が普遍的な法則として妥当するか問え、という。普遍的な法則たり得ない場合、その行動原理は捨てよ、というわけだ。
【道徳的法則について】
引用:『その行為が他のもののための手段として善いだけである場合には、その命法は仮言的である。その行為がそれ自体として善いものと考えられるときは、その命法は定言的である。』
引用:『仮言的な命法が告げるのは、その行為がある可能的な意図のために善いか、ある実践的な意図のために善いということだけである。…これに対して定言命法は、何らかの意志とはかかわりなく、すなわちいかなる目的なしでも、その行為がそれだけで客観的に必然であると宣言する命法であり必然的な実践原理として妥当するものである』
カントによれば、ある実例から、つまり経験的なものから道徳性を取り出すのではなく、逆にその実例が、手本となる実例にあるかを、道徳性の原理により判断せねばならないという。人は幸福を実現するために経験的根拠から、行動原理すら歪めてしまうからである。
カントは、欲求や衝動に駆られる(傾向性)のではなく、ただ、「義務」の名のもとに義務に従うことこそ、道徳であるというのだ。
【命法とは】
引用:「ある客観的な原理の観念が、ある意志を強制する場合には、それは命令と呼ばれる。この命令を表現する方式は命法と呼ばれる」
①仮言命法
可能的な意図のために善い:不確実な実践原理
現実的な意図のために善い:断定的な実践原理
②定言命法
意図とかかわりなく善い:必然的な実践原理
【道徳性の最高の原理】
引用:『すべての人は自分の幸福を実現することを望んでいるにもかかわらず、自分がほんとうに何を望み、何を意欲しているかを、自分に納得できる形で明確に語ることができない』
引用:『君は君の行動原理が同時に普遍的な法則となることをほっすることができるような行動原理だけにしたがって行為せよ。』
自分の行動原理が普遍的な法則となったらいったいどんなことがおこるだろうかと問え。カントはそう言った。この原理に基づくと、他者へのウソはもちろん、自殺ですら非道徳的な行為となる。
引用:『わたしたちの行為一般を道徳的に判断するための基準となるのは、わたしたちは自分の行為の原理が普遍的な法則なることを意欲しうることができなければならないということである』
引用:『すべての経験的なものは添え物にすぎず、原理に役立つことができないだけでなく、道徳の純正さそのものにとって、きわめて有害なものである。』
カントはさらに定言命法をこんな感じでまとめる。
引用:『君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない』
なぜ自殺がいけないことなのか。カントによれば、苦しみから逃れ楽になるという目的のための手段だからだ。自ら命をたつことを目的とする原理が普遍的な法則として妥当するということは考えにくい。さらにカントは“黄金律”すら否定する。
引用:『「自分にされたくないことを、他人にしてはならない…」といった陳腐な表現を、規範や原理として利用できると考えてはならない』
黄金律の考え方は、人を手段としてではなく、目的として扱うという原理にさまざまな制約をくわえるからである。犯罪者は自分を処罰しようとしている裁判官に自分を苦しめるような罰を与えてはならない、という議論すらできるのだとカントは言う。
自分の行動原理が道徳性を備えているか、この問いに、難解な哲学岩塩など駆使しなくても「自分の行動原理が普遍的な法則となることを意欲しうるか?」と問うだけでそれを判断できることをカントは示した。
【自由は如何にして可能か】
単に道徳的な法則に服従するのではなく、道徳的な法則を自らの意志で自由につくりだし、それに服従する在り方をカントは自律と呼んだ。そして『自律の原理が道徳の唯一の原理である』と述べている。一方、自然法則に従った行動原理を他律と呼んだ。カントの言う自由とは他律に抗う自律の意志。他者の法則に従うのではなく、自らの法則に従う自由。
道徳と幸福が結びついていないからこそ、道徳の崇高性が生まれ、道徳的な行為に尊厳が生まれる。欲求に従った行動には自由はない。つまり、「欲望・関心相関的に駆動する行動原理は道徳的ではない」カントはそのように述べているのではないだろうか。傾向性に基づくのではなく、自律に基づく意志こそ、自由に行動するということ。現代社会において、僕たちはいくらか不自由な選択をしていないだろうか。自由という概念の定義に、カントの「道徳形而上学の基礎づけ」から学ぶことはとても多いように思える。