思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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病名と時間、構造主義医療から考察する疾患定義とは何か

「病名とは何か、ソシュール言語学から垣間見る疾患成立の恣意性」

 

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にて疾患成立の恣意性を考察してきたが、そのような仕方で成立した疾患、すなわち医療者が名指す疾患名は とは人間にどのような影響を与えうるのであるか。

[モノとコトの差異]

「…というモノ」という言い方は「コップというモノ」、「机というモノ」というような具体的実在物を名指すような仕方で用いられる。「病気というモノ」、「認知症というモノ」というような非実在物も対象として含んではいるが、そこで問われているのは名詞的、主語的な実体として思考されているということだ。病気というモノ、いわば名詞的疾患解釈モデルの分かりやすい例が病名付与である。このことについては後に詳しく述べよう。

一方で「…というコト」という言い方はどうだろうか。「美しいというコト」、「病気というコト」、「認知症というコト」 ここで「…」にあたるものは名詞的、主語的な立ち位置にはいない。モノとして、すなわち客観的対象としての病気や認知症があるわけではなく、病気というコト、認知症というコトとしてより行為的であり述語的なのだ。

やや抽象的な説明となってしまった。もう少し具体的な解説を試みよう。例えば、「砂糖は甘い」という時の”甘い”がさすものは、実在物である砂糖であり、客観的対象となりうる”甘いというモノ”である。しかし、「甘いメロディー」「お前は甘いなぁ」などという時の”甘い”は世界に対してとりうる実践的な関わり方としての”甘いというコト”なのだ。甘いの本質は味覚の対象となる実在物だけではなく”甘いというコト”として僕たちの前に開示された世界を受けとるその仕方である。

話をもどそう。僕たちは認知症というモノ」に直接不安を感じることは少ないが、「認知症というコト」は重大な問題である。このように「モノ」は僕たちにとって無差別的な客観対象になりうるのに対して、「コト」は僕たちのそれに対する実践的な関与を促す働きを有する。「…というコト」というのは現存在が世界に対する関わり方、あるいは現存在の生き方そのものなのだ。

[病名と時間]

高血圧と言うのは正常血圧に比べて血圧の値がやや高い状態のことである。そのため将来的にやや脳卒中リスクが高い。ここで大事なのは将来的な脳卒中リスクがどの程普高いかという問題である。年齢を重ねれば、血圧が正常であっても脳卒中リスクが高くなることは疫学的研究により示されている。したがって、時間の経過とともに、どのくらいのスピードで脳卒中というイベントが起こり得るのか、それが高血圧と正常血圧でどのくらいの時間差が有るのかと言う問題がさしあたって重要なわけである。高血圧という状態が10年後も高血圧であり、それ以上でもそれ以下でもない場合、それは治療すべき高血圧と言えるのか、と言う問題は、治療をうける患者の年齢にもよるだろう

例えば50歳であれば10年後は60歳であり、まだまだ余命は長い。したがってそれ以降の予後を込みで考える必要があるのに対して、現在90歳である患者に対してはどうであろうか。語弊を恐れずに言えば、高血圧により脳卒中を起こして亡くなるというよりは、寿命により亡くなる可能性が高くなる。したがって両者を同じ治療すべき高血圧症としてカテゴライズするには原理的に無理がある。

治療をするために病名をつけるのであれば、病名は「時間を含む変なる現象である」であり本来、モノではなくコトとして定義すべきである。病名にはその後患者が死亡するなどと言った時間的な流れは定義化されておらず、「高血圧というコト」であるはずが、「高血圧というモノ」として定義されてしまう。このようなモノ化としての病名定義は、どのような患者であれ、条件さえ満たしてしまえば、将来リスクや予後に大きな差が有るにも関わらず、そのことについてあまり考慮されず同一の治療が開始される恐れを孕んでいる。

認知症を例に挙げ、これまでの思索を振り返ろう。患者とって、認知症は、認知症という「モノ」ではなく認知症という「コト」である。しかし医療者は多くの場合、認知症認知症という「モノ」として定義せずには取り扱えない。なぜなら疾患は、「モノ」として取り扱うことで、はじめて学術的に定義し、診断し、治療方針を決定する、すなわち疾患を概念化することが可能になるからだ。一方で患者にとっては、疾患は自覚的に感じた瞬間、あるいは他者に発見された瞬間から「コト」であり、刻々と変化する自分自身の「コト」の中で実践的に関与しうるのである。

[時間を生み出す形式]

現象そのものは時間を内包する。すなわち不変の現象は存在しない。変わっていくことが今わからないとしても、変わったことは分かるものだ。例えば今の僕自身、5分後に何か変わるとすれば、顔の形とか、身長や、体重はそれほど変わるはずもない。しかし20年前と比べれば、それは大きく変わっていることは明らかだ。

時間とともに変化する僕は、しかし僕であり続ける根拠はどこにあるのか。「僕の名前」は10年前も、そして10年後もおそらくは変わらないけれど、「僕」は変わっていく。もっとメタボになっているかもしれないし、この世にいないかもしれない。このように「名」とは時間を生み出す形式であるという事に気づかされる。

人の「名」以外にも様々な現象に「名」がある。病気に対してもそうで、それはしばしば「病名」といわれる。「病名」は様々な現象をコードする不変の何かであり、診断基準に支えられ、治療方針が標準化されていることも多い。僕ら医療者は、こういった病気という実態を現象としてとらえ、病名というコトバにコードしていく。

先にも述べた通り、「高血圧症」というコトバは時間を含まず、診断基準という不変の同一性に支えられた「モノ」ではあるが、実際の患者にとっての「高血圧」は「モノ」ではなく「コト」である。患者は今を生きる、すなわち時間を含むものであり、患者個々の「高血圧」は時間を含む変なる現象といえよう。どういう事か。

具体的に1年後の「高血圧」はどうなっているか考えてみよう。コトバとしての「高血圧」、すなわち高血圧というモノは1年後も「収縮期圧140mmHg以上、もしくは拡張期圧90mmHg以上」という不変の現象を名指す。しかしながら患者にとっての高血圧は時々刻々と変化する高血圧というコトである。血圧がより上がって、めまいや頭痛の頻度が増えているかもしれない。あるいは「高血圧」から脳卒中をおこし、寝たきりとなってしまっている、あるいは亡くなってしまったかもしれない。

「モノ」としての「高血圧」、すなわち病名としての高血圧は患者が死んでしまうとか、高血圧のコントロールが悪化して、めまいや頭痛がでるとか、脳卒中が起こるとか、そういった事は定義されていない。あくまでも血圧が高いという不変の同一性を定義しているにすぎない。しかし目の前の患者は現実を生きており、その時間性を考慮せずにはいられない。時間を前に不変なものなど存在しないのだ。

モノ化された「高血圧症」という同一性に支えられ、僕らは降圧治療を考えるが、同時に患者の「高血圧症」は時間を内包した「高血圧というコト」である。実臨床で、不変の同一性を有する疾患定義は便利なものであるが、同時に患者固有の時間を見失うことも多いのだ

このことは病気の早期発見において重大な問題を孕んでいる。「モノ」としての病名が通常の医療アクティビティよりも早い段階で付与されることが病気の早期発見と考えられる。しかし「コト」としての疾患が早期発見によりどのような影響を患者本人に及ぼすのかという問題が重要である。「コト」としての疾患が、早期発見により、その時間軸において幸福な時間をもたらすのか、それとも不幸な時間をもたらすのか。医療者から見ればモノ化された疾患は患者の時間軸の中で不変の同一性を有しているが、患者から見れば全く不変ではないのである。早期の病名付与によりうける精神的苦痛が果たしてどれほど幸福な時間をもたらしているのか、それは病気の早期発見というスクリーニング介入の実効性をよくよく検討することに他ならない。

本稿では詳細に立ち入らないが、一つ論文を提示しておこう。

Simmons RK, Echouffo-Tcheugui JB.et.al. Screening for type 2 diabetes and population mortality over 10 years (ADDITION-Cambridge): a cluster-randomised controlled trial. Lancet. 2012 Nov 17;380(9855):1741-8. PMID: 23040422

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/23040422

このADDITION-Cambridgeは、2 型糖尿病発症リスクが高い 40~69 歳の研究参加者20184 人を対象としたクラスターランダム化比較試験で、糖尿病検診によるスクリーニング実施群と非実施群を比較した。その結果、追跡9.6年で総死亡はハザード比1.06[95%信頼区間0.90~1.25]とその有効性不明という結果であった。

 

健常者を対象にした糖尿病スクリーニングでは明確な形で死亡リスク減少は示されていない。「糖尿病というモノ」、そして「糖尿病というコト」、両者をよくよく考察し、患者固有の時間について慎重な議論が必要だろう。