思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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[書籍]薬のデギュスタシオン2 製薬メーカーに頼らずに薬を勉強するために

比較を論じる際に大切なのは、差異を見出そうとしている観点です。この場合の観点とは、差異化を試みる際に着目する人の関心と言えるかもしれません。つまるところ、二者の比較とは、両者の間に、なんらかの関心に基づく視点(観点)を持ち込み、その観点で相違点を見出していくプロセスに他なりません。

しかしながら、本来、比較観点というものは無数に存在しているわけで、そのどれを重視するかは、比較する人間の関心に依存していると言っても過言ではないでしょう。アヒルと、醜いアヒルの子の差異を認識できるのは、両者の体の色に関心があるからであって、身体の色に全く関心の無い人であれば、両者はほぼ同じに見えるはずです。

このことは、着目する観点に対する関心を一切排除するのならば、両者はそれが何であれ、ほぼ同じものとして捉えることができることを意味します。別言すれば、あらゆる2群間の統計学的有意差は、ある価値観に基づいて差があるというだけで、両群の共通点の「数」では明確な差がないと言えるかもしれません。

「関心がない二物は同じである」というテーゼに要約されるこの思考原理は「醜いアヒルの子の定理」と呼ばれます。アヒルの子と、醜いアヒルの子の区別が容易なのは、どこを比較すれば両者が別物なのかを先に決めて掛かっているからなのです。

しかし、臨床の現場では一つの決断をしなくてはいけません。“薬の比較を論じたところで、両者は大差ないからどうでもいい”と判断することはしばしば重要であると、個人的にはそのように感じています。しかし、現実には”どうでもいい”という決断をすることはできません。判断と決断を混同してはならないのです。

”どうでもよさ”は臨床判断の多様性を広げますが、その中から一つの決断をしていく、それが臨床の現場です。大切なのは”決断において、どんな関心に基づいて差異化を行っていくか”ということなのです。

薬のデギュスタシオンという本は『大事なことは「臨床的に意味のある違い」であり、些細な構造式の違いや臨床的にはどうでもよい薬理学上の属性には拘泥していない』[1]というコンセプトのもと編集されています。つまり、向けられているのは、「患者にとって、いかに有益な治療を模索するか」という極めて臨床的な関心であり、これは医療において最も重視すべき(決して排除してはならない)関心であるように思います。

まるでワインのテイスティングをするように薬と薬の差異を考える本。薬のデギュスタシオン2が出版されます。

薬のデギュスタシオン2 製薬メーカーに頼らずに薬を勉強するために


前回に引き続き、今回も8トピックを執筆させていただきました。薬の比較を論じることは薬物治療に対して、薬剤師としての意見を持つことに他なりません。ただ、本書に示させていただいた僕の意見が、必ずしも正しい薬物治療の在り方だと言いたいわけではないのです。僕の関心は「正しい治療の在り方」には存在しないからです。むしろ示したかったのは、差異化の果てに垣間見える臨床判断の多様性であり、決断することの困難さであると言えるでしょう。

 

前作同様、本書の執筆が、後の僕の仕事に与えた影響ははかり知れません。編集者の岩田健太郎先生、そして僕のEBMの師であり、共著者のお一人でもある名郷直樹先生、また関係者の方々にあらためて感謝申し上げます。貴重な機会を誠にありがとうございました。


[脚注]

[1] 楽園はこちら側 「薬のデギュスタシオン」、できました。http://georgebest1969.typepad.jp/blog/2015/11/%E8%96%AC%E3%81%AE%E3%83%87%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F.html